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国家のアイデンティティと選択的夫婦別姓

昨今、選択的夫婦別姓に関する議論が盛り上がっています。
最近では、宇多田ヒカルさんの新曲の歌詞に「夫婦別姓」が出てきたり、藤井聡太さんが選択的夫婦別姓に賛成だという趣旨の発言をされたということが話題になっています。
そこで、日本という国のアイデンティティという観点から選択的夫婦別姓について考えてみようと思います。

日本では、「国」のことをときに「国家」と呼びます。
この言葉には、単なる地理や統治機構を超えた、家族的なつながりの感覚が宿っているように思います。

この感覚の原点ともいえるのが、初代・神武天皇の建国の詔(はじめて天下を治めるにあたり示された方針)です。
そこには次のように記されています。
「掩八紘而為宇」(八紘を掩(おお)いて宇(いえ)と為さん)
これは、「天下万民をひとつの家のように包み込もう」という意味であり、いわば日本という国を家族の共同体として築こうとする意志の表れです。
「みんな家族だ、助け合おう!」というのが日本の建国の理念です。

日本の社会は長らく、「家」や「地域共同体」を単位として成り立ってきました。
そこでは、個人は家族や地域社会の中の役割を果たすことで尊重され、自己実現していくという文化がありました。
西洋のように「契約によって成り立つ個人の集合体」としての国家観とは対照的です。
近代日本の憲法起草に携わった井上毅も、こうした日本の伝統に深く根ざした思想を持っていました。彼はこう述べています。
「国家の本旨は、祖宗の遺業を継承し、子孫に伝うるにあり」
つまり、日本の国家は、単なる政治制度ではなく、先祖からの精神的遺産を継承し、未来に受け継ぐための「家」としての連続性を重視していました。
その象徴が天皇です。

このような伝統的日本観に立てば、日本の民主主義とは、単に「現在の有権者の意見で決まる仕組み」ではなく、過去の先人たちの思いや文化を尊重し、将来の世代の幸福や秩序も視野に入れた、長い時間軸での合意形成が本来の姿ではないかと考えます。

「選択的」という言葉には、自由で柔軟な進歩的イメージがあり、現在の有権者の一定数の民意が選択的夫婦別姓に賛同していることは理解できます。
しかし、「選べるならいいじゃないか」と短絡的に考えるのではなく、それが本当に社会の根幹を支える「家族」の形にどんな影響を与えるのかを、私たちは慎重に考える必要があります。

家族とは、いわばもっとも小さな単位の「国家」です。
そこにおいて「夫婦とは何か」「親子とは何か」「家とは何か」といった基本が崩れれば、社会全体の土台が揺らぐ可能性があります。
「そんなことで揺らぐなら所詮家族なんて大した意義を有していないじゃないか」という意見に対しては、大切なものを守るためにはやはり形は大事だと、(何事も形から入る私としては)そう言いたいです。

もちろん、現行制度の枠組みの中で不都合を感じられている方がいることも、また、個人のアイデンティティと制度の狭間で窮屈な思いをされている方がいることも、決して無視してはならない現実です。
そうした方々が、自らの尊厳を保ちながら愛するパートナーとの共同体を形成できるようにするための制度設計も、社会の成熟には不可欠だと考えます。

つまり、これは「伝統か革新か」「保守かリベラルか」といった単純な二元論ではなく、長い時間軸の中で、家族と個人、共同体と自由の調和をいかに図るかという本質的な問いなのです。
「国家」は、単なる制度ではなく、人と人とのつながりを基礎とした「家」の延長です。
だからこそ、家族に関わる制度変更については、文化的・歴史的背景と、個人の尊厳の両方を大切にしながら、丁寧に議論を重ねていくことが求められるのではないでしょうか。

ちなみに、私自身は、選択的夫婦別姓には反対ですが、宇多田ヒカルさんや藤井聡太さんに関しては、彼らが政治的に利用されているのではなく本心で自発的に発言されているのであれば、そのこと自体に何らネガティブな感情を持つものではありません。
宇多田ヒカルさんの歌は好きだし、藤井聡太さんの将棋も好きです。彼らが何を発言しようとそれは変わりません。
日本人として、異なる意見を尊重しながら、「みんな家族だ、助け合おう!」という日本のアイデンティティを忘れないようにしたいと思っています。

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